実は、一度だけ内田先生の講義を聴講したことがある。それが本書に収載された第十三講の授業だった。
内田先生の早口には慣れたつもりでいたが、講義での情報量の洪水にまず驚いた(それは本書を読むとわかっていただけるだろう)。
声は小さくないけれど、さほど大きくもない。口調は、口角泡を飛ばすような激しさはなく、どちらかといえば淡々と、どこか囁くような親密さに満ちている。びっしり満席の大きな教室を埋め尽くすにはいささか頼りないかと思いきや、後ろの席に座っている私にもその声はしっかりと届いた。そういう話し方があるのだ。文章でいうと「!」を連打しなくても、語尾の強弱が自然と見えてくるような語り口が。
静かな湖に小石を滑り落とすように始まった授業は、聞き慣れた言葉が耳元をさらさら通りすぎるような、簡単に理解できる講義ではなかった。小石が生んだ微かな波紋の変化を見逃すと、次の風景を見失うような連続性で講義は展開され、どの言葉にも、注意深く耳を傾けていないと流れていってしまうような繊細な主張や感情の揺れが含まれていた。
わざわざ内田先生の最終講義を聴きにきている学生たちは、熱心に、でも呆然としているようにも見えた。それはきっと、私もそうであったように、内田先生の口の開き方、目の動き、身体の揺らし方、声の抑揚を含めて、全身を開いて「聞こう」としていたからだろうと思う。
たったいま、自分に見えたもの、聞こえた音を君たちに伝えたい。その風景を見て欲しい。その内田先生の熱量は、青く燃える炎のように静かに教室を照らしていた。本書に収められた講義は、そうした場で生まれた言葉の連続なのだ(他の日の講義では真っ赤な炎となり感情を荒ぶらせていたこともあったようだけど)。
この本を開くと、話しながらときどき何かを思い出したように興奮で頬を紅潮させたり、それがクセであるのだが、思いついたアイデアを言葉に置き換えようとするときに小鼻を指で押さえる内田先生の姿が思い出される。
もしかすると、私の記憶のなかでいささか美化されているのかもしれない。でもそれほどに、思いが伝わってくるような時間だった。こうして書物になり、読み手である皆さんとその時間を共有できることが、幸せでならない。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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