第二章「菊花の炭」。尼子家に仕えた山中家の子孫を語る小説の中で、「菊花」という言葉を用いれば、読者は上田秋成(うえだあきなり)の『菊花の約(ちぎり)』を連想する。言わずと知れた『雨月物語』の一編で、紛れもない傑作である。作中、「酒」が重要な役割を果たしている。ところが、この『菊花の約』では、尼子経久(つねひさ)と山中党は、悪役である。
下克上(げこくじょう)の時代にあって、山陰の覇権を握った尼子家の興亡を、塩冶(えんや)家から簒奪した者と見るか、毛利家に簒奪された者と見るかで、評価は大きく分かれる。けれども、茶道の世界で有名な「菊炭(きくすみ)」を、「菊花の炭」と表現した小前には、秋成の『菊花の約』の主題「信義」が意識されていたに違いない。その伏線が、第四章「江戸送り」で巧みに回収されるのは、思わず膝を打つ。「炭」。炭が生きてくる。この酵素で、酒だけでなく、小説が活性化した。
酒造りが、人間性を高め、清めること、つまり「人間を造る」ことにつながる。それがそのまま小説を造り、読者の心を清める小前亮の創作手法となる。これほど、小説のテーマが、小説家としてのアイデンティティと重なる作品は、珍しい。『月に捧ぐは清き酒』は、作者が「幸せの運搬人」となって、幸せを読者に直に手渡している。
《物を運ぶことは、幸せを運ぶことだ。もちろん、運ぶ者も幸せになる。》
小説の終わり近くに置かれたこの言葉は、「小説を書くことは、幸せを運ぶことだ。もちろん、書いた者も幸せになる」と、読み替えられる。それだけ、作者は日本酒が好きで、日本酒のことを書きたかったのだろう。良質の日本酒は、南蛮渡来のギヤマンの酒杯で飲むのが最も美しいという一節や、鴻池屋の酒は肴をつけるのが旨(うま)く飲めるという一節などは、作者自身の晩酌風景を想像させて微笑(ほほえ)ましい。
人生をより良く生きる、人生を楽しく生きるために、酒がある。このことを、作者は小説というスタイルで、現代にも通じる文明論とした。この小説の味わいは、名酒のように切れ味が鋭く、かつ形而上学的な旨みがある。
第五章の酒比べ(酒勝負)で、敗北しかけた新右衛門の耳に聞こえてきたのは、亡父・鹿介の言葉だった。新右衛門は、父の顔も、声も知らない。だが、人生の土壇場で聞こえた声を、「父」のものだと確信した。そして、何とか窮地を脱した。
おそらく、この声は、父の声でなく、「自分自身」の内なる声だったのだろう。妻のはなの声でもあったかもしれない。それは、新右衛門が生涯を通して追い求めてきた商人の道、すなわち「輸送」に関わることだった。新右衛門は、自分の生き甲斐をかけて戦ったのである。父の声を聞いた時、新右衛門は、「真実の自分」に到達した。
兜の前立(まえだて)が三日月の形をしていて、月に祈っていた父。同じ月を、父と離れた場所で見て、心を通わせていた息子。二人の心は、月によって交流し、流通していた。この月を、日本中の人々が手にする酒杯の中に映し出し、流通させること。その杯の中の酒が、清らかであればあるほど、宿る月の光も美しい。それが、鴻池新右衛門に託した作者・小前亮の願いだろう。読者も、作者と一体化してこの小説を読み進めることで、自分自身の生きる喜びと楽しみを発見できる。本書に導かれて、現代の「喜楽斎」が何人も誕生してほしい。
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