
晴海通りを隅田川に向かって歩いていくと、途中の左手に小田原町交番という派出所が姿を現わす。ここだけは、小田原町の町名がまだ生きているらしい。その前を通り過ぎ、勝鬨橋の手前の道を左に曲がる。
すると、やがて、巨大生命保険会社のビルの先にあかつき公園が見えてくる。その手前の小さな交差点であたりを見回すと、ひとつの角に、なるほど立て札風のプレートが立っている。
──ここが寒橋のあったあたりなのか……。
しばらくその周辺で時間をつぶしてから旧小田原町のあたりをぶらぶらしていると、しだいに暗くなってきた。
風は冷たく、人通りはほとんどない。そのとき、父の作ったもうひとつの句が思い出されてきた。
寒柝に幼児の怖れ憶ひけり
冬の夜、「火の用心」の声をあげながら拍子木を叩いて廻る人たちがいる。その声と拍子木の乾いた音とが、幼い父をどこか不安にさせる。もしかしたら、関東大震災前の東京は、火をつければすぐに大きな火事が起こるという木と紙の家がほとんどで、父にも幼いながらにそうした江戸東京で暮らしてきた人たちの火事に対する恐れが根付いていたのかもしれない。
もちろん、いま、築地と町名を変えてしまった夕暮れどきの小田原町に「寒柝」の響きはない。
しかし。
《ずっと遠くで、火の番の柝の音が冴えて聞えた》
これが「寒橋」の最後の一行である。
夜の小田原町をひとり歩いていると、お孝の住んでいた小田原町に聞こえる「柝の音」と、幼い父の寝所に響いてくる「寒柝」とがひとつになり、私にもまたどこからか拍子木の音が聞こえてくるような気がした。
私も幼い頃に聞いたことのある、「火の用心、さっしゃりませ」という声とともに。
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