もうひとつ、頭が固いということでは、六つの章を展示室に設けたこともそうかもしれません。本来、中野さんの本に章立ては存在しません。美術史を縦横無尽に駆け巡りながら様々な「怖い」絵を拾い集め、切れ味鋭い言葉で鮮やかに捌いてみせるのが最大の魅力なのに、章を設けるということは、バラエティ豊かな作品を無理やり窮屈な枠組みにはめ込むことになりかねません。それでも、本より遥かに多くの作品を扱う展覧会でひたすら絵を羅列するのも不親切に思われたので、「神話」、「怪物」、「現実」、「歴史」……といったそれらしい章を置きました。いってみれば通常の展覧会の体裁に合わせたわけですが、本当に必要だったかどうか悩ましいところです。
また、これらの章立てを巡っては、いくつかの作品をどの章に入れるかで中野さんと意見が一致しないこともありました。例えば、フランス象徴主義の画家ギュスターヴ=アドルフ・モッサの《飽食のセイレーン》と《彼女》という二枚の絵(ご存じない方、ネットでご検索ください)の場合。当初私は同じ画家の作品なので「怪物」の章に並べて展示したいと考えていたのですが、中野さんは、「怪物」の章に置くのは後者のみとし、前者は「神話」の章でイギリスの画家ハーバート・ジェイムズ・ドレイパーの《オデュッセウスとセイレーン》の隣に置くべし、と主張されました。
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