時候の挨拶のような気持ちで季節を…
――たしかに季節を詠ったものは多いですね。先ほどの「雲雀」の歌も三月ですし、他にも「春に眠れば春に別れてそれきりの友だちみんな手を振っている」などが思い出されます。
服部 たしかに、季節は大きなテーマになっていますね。いろんなタイプの人がいますが、私の場合は自己表現という意識で短歌を作ったことはないんですよ。なので、いつも何を書いていいのかわからずにいる。何を書いていいかわからないと、じゃあ時候の挨拶のような気持ちで季節でも……と詠み始めてしまう(笑)。結果的に自己は表現されていると思いますが、あくまで結果なんです。
これは私の短歌の作り方についての話でもあるのですが、短歌において言葉の役割を事実の伝達に限ってしまうと、短歌が事実の後追いでしかなくなってしまうと思うんです。事実を詠みたくないと言っているのではありません。事実を精緻に描いたすばらしい短歌はたくさんありますし、私も事実を詠むことはあります。そうした短歌は、事実の「後追い」ではないと考えています。短歌で描いたことによるふくらみがあるからです。
たとえば、とても感動的な体験をした人がそのことを短歌にして、その歌を読んだ人がさらに感動するということがあったとします。もしもその「感動的な体験」が事実でなかったとき、短歌を読んで得た感動がまったくなくなってしまうのなら、それは短歌ではなく事実に感動していたということだと思うんですね。その場合は、言葉が事実の後追いになっていると思うんです。言葉が事実に奉仕しているというか。そういう短歌を必要としている人もいると思います。でも、それは私がやりたいことじゃない。私は言葉にしか作れない世界、短歌にしか築けない世界があると思っていて、それを作りたいと思っています。
だから、私の歌は意味から外れがちになることもあって、以前、「水仙と盗聴」論争というものがありまして……。
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