時の流れがすべてを押し流し、作者を除くすべての登場人物が退場したあと、やわらかな光だけがぼんやりと舞台を包み込む。そこにひとりの人物が現れる。それがこの作品の「結び」だ。未読の方にはぜひ、この感動を味わって戴きたい。長いものを読み進めてきたからこそ味わえる深い感慨が、この作品にはあるのだ。
……ここから先はきわめて個人的な感慨を書くが、お許し戴きたい。本巻終盤には第一巻に登場した人びとの消息が語られる箇所があるのだが、そこを読んだとき、彼らに意外ななつかしさを感じた。こちらのほうも第一巻以降、その箇所に辿り着くまで八〇〇ページ強を読み進めてきたのだ。ひさしぶりの再会を喜んでも良いではないか。そしてそれ以上に、彼らもまた物語の外でしっかりと生きていたのだ、と意外なほどの感動をおぼえたのである。言及されなくとも、彼らも同じ時をともに生き、同じ時を歩いてきたのだ。当たり前かも知れないが、それはとても素晴らしいことのように思えた。さらに、こうも思ったのだ。──それは実は、いまを生きる我々にも当て嵌まることではないか。我々もまた、一人ひとりが同じ時を生き、同じ時を皆で歩んでいる。巨星にはなれなくとも、何をも成し遂げなくとも、皆でひとつの時代をつくり上げている。それもとても素晴らしいことではないのか。
小説を読んでいて、このような感想を持ったのは正真正銘はじめてのことだった。『いとま申して』を唯一無二の作品と思う所以である。
最後に。
自分にとって『いとま申して』はひとつの大長編であるのだが、実はこの三部作はどこからでも支障なく読める。第一巻では『童話』を中心とした人びとの歩みを見つめ、第二巻は一冊目以上に父の日記に寄り添って学問の生活と頻繁な観劇を活写し、第三巻は文学探偵手法を駆使し折口とその周囲の人びとを描出……と、読みどころも各巻それぞれに少しずつ異なる。全巻読み切る自信がないという方は、取り敢えずこの第三巻を先に試してみることをお勧めする。
無数の人びとが時代をつくり、時の流れがそれらの人びとを乗せて運んでゆく。そのようにして時と人が織り上げた精緻な一大織物を小説のかたちに具現化した作品、それが『いとま申して』だ。デビュー作『空飛ぶ馬』でミステリに新潮流をもたらした偉才が、自らライフワークと称した畢生の大作である。長さに怯えず、ぜひ読んでみてください。
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