いま、私は山手樹一郎について「作家としての悲哀」という言葉を使った。
悲哀。悲と哀。どちらも、かなしい、という意味を持つ。しかし、その二つのかなしみは微妙に異なっているようにも思える。
吉行淳之介は「からだ」という字にこだわった作家として知られている。自分の書く文章の中には「体」や「躰」はどうしても使えないというのだ。そして、終生、「躯」を使いつづけた。確かに、性を通して女体を描くことの多かった吉行淳之介の小説世界には、「躯」がふさわしかった。
悲も哀も、人によって独特の思いを込めて使われることの多い字のひとつであるといえるだろう。
山本周五郎も、あるときは「悲しい」と書き、あるときは「哀しい」を使い、またあるときは「かなしい」を用いたりして、微妙な使い分けをしている。
私には、「悲しい」は透明で乾いているが、「哀しい」はいくらか濡れているように思われる。寒い空気の中で煌めくダイヤモンドダストのようなものが「悲しい」だとすれば、湿り気を帯びた空気の中の霧や靄のようなものが「哀しい」であるような気がする。
あるいは、「悲しみ」は外に向かって進んでいく可能性を持つが、「哀しみ」は裡に籠もったままその内部にとどまるものであるような気もする。「悲」からは透明な水のようなすきとおったかなしみが、「哀」からは霧や靄に覆われた見通しのきかないかなしみが感じられる。
もし、いくらか強引に性別をつけるなら、男のかなしみは鋭角的な「悲」であり、女のかなしみはどこか丸みを帯びた「哀」であると言えるかもしれない。
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