しかし、ここで私は首をひねりました。
何せ、金属格子から私の部屋のチャイムのボタンまで、廊下の横幅分、そこそこの距離があるのです。
少なくとも、彼女の腕が人並外れて長いとか、体の一部がろくろっ首程度に伸びるとかいう特技がない限り、チャイムを押すことは不可能です。
不思議がる私に、彼女は心底恥ずかしそうに銀色の何かを持ち上げました。
それは、大学生がよく使用する、伸びるタイプの指示棒でした。
――なんて頭が良いんだ!
私は感動してしまいました。
発表でスライドなどを使用する際、指示棒は必要不可欠です。しかし、それを帰宅困難になった時、まるでフェンシングのように伸ばして廊下を横断させ、部屋のチャイムを押すことに使うなど、一体どれだけの人が思いつくでしょうか。
彼女は腕を伸ばす代わりに、指示棒を伸ばすことによって己の窮地を脱したのです。
一人で心細かったであろう彼女が、それでも持てる力と知恵の全てを振り絞って帰宅しようとしたことが窺えて、「人間ってすごいな」とささやかながら大いに感銘を受けたのでした。
その後、ちゃんと寮生であることを確認した上でエントランスの鍵を内側から開錠しましたので、彼女は無事に帰宅することが出来ました。
あの寮から引っ越してすでに数年が経ちますが、いやはや、学生時代らしい、何度思い出しても楽しい思い出です!
今の部屋に来てからも、深夜に何度もチャイムを鳴らされて起きたということがあったのですが、その時は本当に誰もいなくて、あんなに愉快な経験はそうそう体験出来るものじゃないんだな、と彼女のことを懐かしく思い出したのでした。
阿部智里(あべ・ちさと) 1991年群馬県生まれ。2012年早稲田大学文化構想学部在学中、史上最年少の20歳で松本清張賞を受賞。17年早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。デビュー作から続く著書「八咫烏シリーズ」は累計130万部を越える大ベストセラーに。松崎夏未氏が『烏に単は似合わない』をWEB&アプリ「コミックDAYS」(講談社)ほかで漫画連載。19年『発現』(NHK出版)刊行。現在は「八咫烏シリーズ」第2部『楽園の烏』を執筆中。
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