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作家の羽休み――「第39回:思い出のお寿司屋さん」

作家の羽休み――「第39回:思い出のお寿司屋さん」

阿部 智里


ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 味についてはもはや何も言うことはない。しかし、このお店の本当の素晴らしさに気付いたのは、何度か通うようになってからのことであった。

 笑顔の素敵な八車の女将さんことおばさんは、いつも、こちらのタイミングを見計らって熱々のお茶を出してくれる。だが一度「猫舌なので」とそれを断ると、次に行った時、湯気の立つ湯呑の中には、小さな氷が浮かんでいたのである。その時同行していた熱いもの好きな母の湯呑には氷は入っていなかったから、私が猫舌なのを覚えていて、あえて、飲み頃のお茶を出してくれたのだ。おばさんはお客さんが帰る際には外まで見送りに出るような人だったので、いつもすごいな、と思っていたのだが、その気遣いの細やかさには感動してしまった。

 そして、おじさんはお寿司を作る合間合間に、お客さんとよくおしゃべりをしていた。

 ネタの説明をする時の口調は滑らかで小気味がよく、お客さんの話への相槌は絶妙で、お客さん同士が話しているのを黙って聞いている時も、全く押しつけがましさがなかった。 

 常連さんもそのあたりの空気をよく心得ていて、カウンターの雰囲気はいつもしっとりと落ち着いているようだった。しかし、ひとたび私が大将の親戚で田舎から出て来たのだと聞くと、「これ、食べたことある?」「あそこには行ってみた?」と面白がるように色々なことを教えてくれたのだった。

 当時アルバイトもしたことがなかった私にとって、全く知らない世界に生きる大人と会話する機会はほとんどなかった。ある意味で、とてもよい社会経験をさせてもらえたと思う。

 適度にしゃべって、食べて、笑って、良い香りのお茶を飲んで、女将さんに見送られてお店を出る。静かな根津の町を駅に向かって歩きながら、「ああ、美味しかったなあ!」と思う瞬間の満足感といったらなかった。

 お寿司の味の良さについてはもはや言うまでもないことだが、大将や女将さん、板前さん、常連さんが織りなす、あのゆったりとした空気そのものが、八車の「美味しさ」なのだろう。

 ――今までの語りが全て過去形であることですでにお気付きだろうが、私の大好きな「鮨処 八車」は、おじさんのお年を理由に、数年前に閉店してしまった。お店の雰囲気も含めて「味」が出来るのだということを教えてくれたあのお店は、今でも私にとって特別で、きっと、これからもずっとそうなのだ。

小さい頃の阿部智里さんとお母様(左)

©阿部智里

阿部智里(あべ・ちさと) 1991年群馬県生まれ。2012年早稲田大学文化構想学部在学中、史上最年少の20歳で松本清張賞を受賞。17年早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。デビュー作から続く著書「八咫烏シリーズ」は累計130万部を越える大ベストセラーに。松崎夏未氏が『烏に単は似合わない』をWEB&アプリ「コミックDAYS」(講談社)ほかで漫画連載。19年『発現』(NHK出版)刊行。「八咫烏シリーズ」最新刊『追憶の烏』発売中。

【公式Twitter】 https://twitter.com/yatagarasu_abc

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